2012年12月3日月曜日

汚れたものが輝いている

本日、本堂におきまして人形供養の法要を執り行いました。
児童養護施設愛染寮、いこま乳児院、いこま乳児保育園の子どもたちが見守る中、古く使えなくなった人形とのお別れの法要となりました。
はじめはきれいだった人形も、手垢がついて黒くなり、あちこち千切れたり取れたりしているのを見ると、その分だけ子どもたちに愛されたという証なのだと感じます。そう思えば、ここへやってくる人形たちは、新品同様というようなきれいなものではなく、誰も欲しがることのないような汚れたものであればあるほど、むしろ輝かしいものなのかもしれません。
さて、私達僧侶が身に着けている「袈裟」ですが、これは「糞掃衣(ふんぞうえ)」とも言われ、人々が使い古し捨ててしまうような、まさに字の通り「糞を掃き拭うのに使ったような」ボロ布を継ぎ接いで作ったものです。そしてこの衣に使われる色は「壊色(えじき)」といって、人々が好んで使わないような色、きらびやかな色ではなくていわば薄汚い色が本来は使われるのです。このように、人が使い古し、誰も好まないような布を身に纏うことによって、色欲から離れ、悟りを目指そうとするのです。その姿こそが、人々が「ありがたい」と感じるものなのでしょうね。私が修行をしている頃、ある監督僧から次のように言われました。「あなたたちが袈裟を着けて人前へ出れば、きっと手を合わせてくれる人がいるだろう。しかし、それはあなたに手を合わせているのではない、あなたが身に着けている袈裟に、人は手を合わせているのです」と。袈裟は、ただ古い布の集まりであるというだけの意味ではなく、また、単に僧侶という職業を表すユニフォームでもない。人々が袈裟に対してありがたみを感じ、手を合わせるのは、(現在では、僧侶の袈裟を本来的な意味の「糞掃衣」といった不浄な布で作っているわけではありませんが) その布がボロボロになるまで人々に使って、使って、使い込まれたものであり、愛着も、憎しみも、悲しみも、何でも引き受けてくれる懐の深さを感じるからなのかもしれないと感じたのでした。人形供養に出された人形たちのように、汚れた分だけ誇らしげに輝いている、そんなものなのかもしれません。

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