2012年9月22日土曜日

小さな平等、大きな平等

秋のお彼岸がやって参りました。
私お彼岸を前に少しお休みを頂いて、アメリカへ旅行に行って参りました。何度も飛行機を乗り継いで、ほとんど丸一日かかって目的地であるワイオミング州のイエローストーン国立公園へ到着しました。日本を夕方に出発して、丸一日かかって到着したのに、現地はまだ当日の晩。そうです、いわゆる「時差」というものが話をややこしくしているのですね。地球の自転の関係で、日本は「日の出づる国」と言われるように、世界で最も早く日の変わる国の一つです。つまり、アメリカは逆に言えば最も遅く日が変わるわけです。今回行ったワイオミング州は、日本よりも16時間遅れるというわけですから、日本が夕方の4時になってはじめて、現地ではようやくその日の0時を向かえるということになります。
私達に与えられたものの中で平等なもののうちの一つに、時間があります。とよく言われます。確かに、生きている私達はみな、一日24時間、1年365日という時が与えられていると言えるでしょう。しかし、瞬間的に考えれば、日本で夕方の4時だというのにアメリカではまだその日が始まったばかり。決して「同じ」というわけにはいかないでしょうね。地球という一つの星に住んでいる限り、みんなそれぞれに違った時間を過ごしているということになります。それに、日本が世界で一番日付が早く変わるということすらも、たまたま日付変更線を太平洋の真ん中に引っ張ったからであって、もしそれが大西洋にあればアメリカやブラジルが一番になっていたでしょうし、中国あたりに引かれていたら、日本が世界で一番最後に日付が変わるなんてこともありえたわけです。
さらに、北半球と南半球とでは、季節が逆になるという事も大きな違いですね。日本とオーストラリアのように、ほとんど時差のないところでも、季節は逆。仮に同じ時間を過ごしているとしても、日本で暑い暑いと言っている夏にも、オーストラリアは寒い冬の季節を迎えているのですから。そう考えてみると、簡単に「平等」といいますが、本当の意味での平等というのは実はとてもむずかしいことなのだということを感じます。確かに、誰しもが1日24時間の時の流れの中にいるわけですが、その瞬間を切り出してみれば、全く違った時空にいるということですし、日本の9月22日19時と、アメリカの9月22日19時では、宇宙の中での地球のその位置はもちろん全然違ったところにあるわけですから、片時も同じ瞬間が私達に平等にあるわけではないようです。
眼の前にある平等、「ケーキを私とあなたとで二等分」、これも確かに平等ですが、それだけにとらわれてしまってはいけないのかもしれません。その時、その瞬間で一見平等に見えないことでも、大きな視点で考えてみれば平等に与えられていること「どんなところにいても、私達に与えられた1日は24時間」もあるのだということです。

「平等、平等」と、簡単に言いがちですが、何を以て平等というか、それは深い問題であるなと、海を越えた国で少し感じたお話でした。