2010年10月8日金曜日

秋季彼岸会 住職法話 -特別養護老人ホーム延寿にて-

仏教では「さとりの教え」というのがありますが、仏教の大事な基本のものの考え方になっているものはなんでしょうか。私たちが普段大切にしている考え方は色々あります、たとえばご先祖様を大切にしましょうとか、毎日手を合わせましょうとか、それぞれ持っている考えがありますが、仏教の中で一番大切にしている考え方というのは、実は「縁」という考え方なんです。「今日は縁起がいい」といったような、「縁起」とも言います。つながり、関係ということですが、「あれがあるからこれがある」という考え方のことなんです。子どもが生まれて初めて「親」といいます。子どもがいなかったら親とはいいませんよね。子どもがいるから親がある。親という存在があるから子どもがいる。右手があるから左手がある。もし右手しかなかったら、「右手」とはいいません、「左手」があるから「右手」もあるわけです。こんな風な考え方を、仏教では「縁」と表現しています。私たちは独りではない、隣の人や近くの人とのつながり、関係が出来上がってそして自分という存在があり、また、周りの人の存在もあるのです。それで、「縁を大事にしましょう」「つながりの大切さ」ということを説いたりするわけです。手をつないでいると「あぁ、つながっているなぁ」と、感じるものでありますが、手を離すとそれはまた別の存在と感じられます。つながっているけれど、分かれてもいる。

春になると、芽が出てきます。境内にあるイチョウの木を見ていても、冬には何もなかった枝に、新しい芽が出て、枝や葉がつき始めます。こんなときに、葉をちぎろうと思っても、無理やりでなければ千切れないものです。ところが秋になって、色づいてきますと、綺麗だなぁと思っているうちに、はらりはらりと葉が落ち始めるのです。風が吹いているから葉が落ちるのかなぁ、と思っていますがそうではありません、何の風も吹いていないのに、あるときふっと 落ちてしまいます。どうして突然に落ちてしまうのだろう、つながっているならば、なにもわざわざ離れてしまわなくてもいいのに、そんなことを考えたことがあります。どこで千切れてしまうのだろう、といいますと、植物はみな細胞でできています。私たちの体も同じですが、最初は一つの細胞だったものが、次々と分かれていってできていくものです。植物も人間も、一つのものではない、たくさんの細胞が集まって出来上がっているのです。ただ、つながっているだけなのです。いわば別々のものであるのですが、一つにつながっているのです。老いていくと、その細胞が離れていく、つながりがなくなって別々の物になっていくのです。葉がぽろっと落ちるのは、木と葉が一つのものではない、つながっているだけのものだから、離れていくのですね。そしてそれは、無理に剥がれていくのではない、自然に、剥がれて、散っていくのです。しかし、そうして枯れてしまったように見える木であっても、また、新しい細胞が生まれ、新しい枝や葉が次の年の春がやってくると芽吹いてくるのです。そして、気がつくと、全体が少し大きくなって、成長しているのですね。私たちは、そういった繰り返しをしながら、次第に成長していくのですね。そして命も同じように、次の世代へと、繰り返しながらつながっていっているわけです。

秋になって木々の葉が落ちるのを見ると、何か物寂しい気持ちになったりもするのですが、それは元々、別々のものであったわけです。落ちた葉を見て、「さぁこれはどこに付いていたものか」と思っても、それはもう知る由もありません、知る必要もないのです。落ちた葉は、肥やしになり、それがまた別の葉になって生まれ変わっていくのです。別々のものだけれど、やっぱりそれは別々ではない、そういうものなのです。離れていくもの、別れていくものというのは、さびしい気もするけれど、何も悲しむことではないのです。長い命の循環から考えれば、それは恐れるに足らないことだ、そんなことを、秋のお彼岸のときに考えるものなのです。実は春のお彼岸の時にはこんなことは考えません。春には新しく生まれる芽や命、そこから命の大切さを考えますが、秋のお彼岸の時には、そろそろ葉が色づき始め、はらはらと落ちていくのを見ながら、命の循環のことを考えるものなのです。私たちの命も亡くなります、それはイチョウの葉と同じことですが、いつまでも生きていようと思ってもそれは無理なことです。しかし、無理に終わらせようと思わなくても、自然に、命はつながっていくものです。私たちの命も、ちゃんと引き継がれていくのだ、ということを考えたら、私の命が在るから、次の命があるのだ、別々の命のようにも思えるけれど、あの命があるから、この命があると思えると、つながっていると考えられるわけです。そしてそのつながりというのは、ちょっとしたことです。ぎゅっとつながっているわけではない、そっと手をつないでいるような、そんなつながりであります。そんなものだからこそ、このお彼岸のときに、つながり、縁の大切さを考える機会になればと思います。どうぞお元気でお過ごし下さい。