2012年12月3日月曜日

汚れたものが輝いている

本日、本堂におきまして人形供養の法要を執り行いました。
児童養護施設愛染寮、いこま乳児院、いこま乳児保育園の子どもたちが見守る中、古く使えなくなった人形とのお別れの法要となりました。
はじめはきれいだった人形も、手垢がついて黒くなり、あちこち千切れたり取れたりしているのを見ると、その分だけ子どもたちに愛されたという証なのだと感じます。そう思えば、ここへやってくる人形たちは、新品同様というようなきれいなものではなく、誰も欲しがることのないような汚れたものであればあるほど、むしろ輝かしいものなのかもしれません。
さて、私達僧侶が身に着けている「袈裟」ですが、これは「糞掃衣(ふんぞうえ)」とも言われ、人々が使い古し捨ててしまうような、まさに字の通り「糞を掃き拭うのに使ったような」ボロ布を継ぎ接いで作ったものです。そしてこの衣に使われる色は「壊色(えじき)」といって、人々が好んで使わないような色、きらびやかな色ではなくていわば薄汚い色が本来は使われるのです。このように、人が使い古し、誰も好まないような布を身に纏うことによって、色欲から離れ、悟りを目指そうとするのです。その姿こそが、人々が「ありがたい」と感じるものなのでしょうね。私が修行をしている頃、ある監督僧から次のように言われました。「あなたたちが袈裟を着けて人前へ出れば、きっと手を合わせてくれる人がいるだろう。しかし、それはあなたに手を合わせているのではない、あなたが身に着けている袈裟に、人は手を合わせているのです」と。袈裟は、ただ古い布の集まりであるというだけの意味ではなく、また、単に僧侶という職業を表すユニフォームでもない。人々が袈裟に対してありがたみを感じ、手を合わせるのは、(現在では、僧侶の袈裟を本来的な意味の「糞掃衣」といった不浄な布で作っているわけではありませんが) その布がボロボロになるまで人々に使って、使って、使い込まれたものであり、愛着も、憎しみも、悲しみも、何でも引き受けてくれる懐の深さを感じるからなのかもしれないと感じたのでした。人形供養に出された人形たちのように、汚れた分だけ誇らしげに輝いている、そんなものなのかもしれません。

2012年9月22日土曜日

小さな平等、大きな平等

秋のお彼岸がやって参りました。
私お彼岸を前に少しお休みを頂いて、アメリカへ旅行に行って参りました。何度も飛行機を乗り継いで、ほとんど丸一日かかって目的地であるワイオミング州のイエローストーン国立公園へ到着しました。日本を夕方に出発して、丸一日かかって到着したのに、現地はまだ当日の晩。そうです、いわゆる「時差」というものが話をややこしくしているのですね。地球の自転の関係で、日本は「日の出づる国」と言われるように、世界で最も早く日の変わる国の一つです。つまり、アメリカは逆に言えば最も遅く日が変わるわけです。今回行ったワイオミング州は、日本よりも16時間遅れるというわけですから、日本が夕方の4時になってはじめて、現地ではようやくその日の0時を向かえるということになります。
私達に与えられたものの中で平等なもののうちの一つに、時間があります。とよく言われます。確かに、生きている私達はみな、一日24時間、1年365日という時が与えられていると言えるでしょう。しかし、瞬間的に考えれば、日本で夕方の4時だというのにアメリカではまだその日が始まったばかり。決して「同じ」というわけにはいかないでしょうね。地球という一つの星に住んでいる限り、みんなそれぞれに違った時間を過ごしているということになります。それに、日本が世界で一番日付が早く変わるということすらも、たまたま日付変更線を太平洋の真ん中に引っ張ったからであって、もしそれが大西洋にあればアメリカやブラジルが一番になっていたでしょうし、中国あたりに引かれていたら、日本が世界で一番最後に日付が変わるなんてこともありえたわけです。
さらに、北半球と南半球とでは、季節が逆になるという事も大きな違いですね。日本とオーストラリアのように、ほとんど時差のないところでも、季節は逆。仮に同じ時間を過ごしているとしても、日本で暑い暑いと言っている夏にも、オーストラリアは寒い冬の季節を迎えているのですから。そう考えてみると、簡単に「平等」といいますが、本当の意味での平等というのは実はとてもむずかしいことなのだということを感じます。確かに、誰しもが1日24時間の時の流れの中にいるわけですが、その瞬間を切り出してみれば、全く違った時空にいるということですし、日本の9月22日19時と、アメリカの9月22日19時では、宇宙の中での地球のその位置はもちろん全然違ったところにあるわけですから、片時も同じ瞬間が私達に平等にあるわけではないようです。
眼の前にある平等、「ケーキを私とあなたとで二等分」、これも確かに平等ですが、それだけにとらわれてしまってはいけないのかもしれません。その時、その瞬間で一見平等に見えないことでも、大きな視点で考えてみれば平等に与えられていること「どんなところにいても、私達に与えられた1日は24時間」もあるのだということです。

「平等、平等」と、簡単に言いがちですが、何を以て平等というか、それは深い問題であるなと、海を越えた国で少し感じたお話でした。

2012年1月14日土曜日

明けましておめでとうございます

本年もどうぞよろしくお願いいたします。
今年は辰年、龍は十二支の中では唯一実在しない動物と言われています。昔から龍は人々から畏れられる存在として語り継がれてきました。鋭い眼光、大きな牙、みるからにコワモテの姿を想像するのではないでしょうか。また、「逆鱗に触れる」「虎口を逃れて竜穴に入る」などのことわざとしても知られています。
しかし、龍はまた英雄や活躍の象徴でもあります。時を窺い好機とみては一気に空へと舞い上がる、その力は「龍の雲を得る如し」であります。空へと舞い上がった龍は、恵みの雨をもたらし、また空から我々を守ってくれるのです。仏教では、龍は仏法護持の守り神とされていますので、色々なお寺の天井に龍が描かれているのはそのためです。
昨年の東日本大震災のあの痛ましい記憶は、年が明けた今もなお薄れることはありませんし、復興への道のりもまだまだ厳しいものがあります。龍のように、自分に厳しく、そして他人に慈しみを、好機を捉えて上昇の一年となりますよう。