2009年9月26日土曜日

秋のお彼岸に際して〜住職法話〜 (特別養護老人ホーム延寿にて)

 毎年の秋のお彼岸がやって参りました。9月23日、今日はお彼岸の中日、秋分の日です。お彼岸の「中日」というぐらいですから、真ん中の日、前と後ろにあってあわせて1週間ということになります。最近ではこの休みはハッピーマンデーの休みや、シルバーウィークなどといって、長い間連休ということで行楽へ出かける人が多いようですが、本来はお彼岸の中日、秋分の日であって、あとの休みは付けたしのようなものだと思っていただくといいのではないかと思います。

さて、今年もお彼岸がやってまいりましたが、去年と比べて何か変わったでしょうか?もちろん、一つ歳をとったわけですから、大いに変わっているといえるでしょう。中には、去年までは一緒にこのお彼岸の法要に来ていた友達が、今年はどこかを悪くして寝込んでしまって出てこられなくてさびしいなぁ、という人もいるかも知れません。少なくとも、少しずつ歳をとっていくのは確かですから、少しずつ、身体の方も思うように動かなくなってきたりすることもあるかもしれません。しかし、歳をとっていけばそれは不思議なことではありません。日本はとても長寿の国になりました。日本の中で100歳を過ぎたお年寄りは4万人を超え、40299人となりました。そして奈良県内でも500人以上が100歳以上なんですね。梅寿荘や延寿にも100歳を超えたお年寄りがいらっしゃいます。しかし、梅寿荘ができたころには100歳を超えた方はおられませんでした。それから長い間、100歳を超える方が出てこないだろうか、と思っていたのですが、なかなか、そういう方がいらっしゃらなかったのです。それが今では、100歳を超える方が梅寿荘にも延寿にもおられるようになりました。それだけ長寿になったということはうれしいことに違いはありません。しかし、一つ年を取るごとに、身体も少しずつ調子が悪くなったり、動きにくくなったりするものであります。気がつかないうちに、少しずつ変わっていくわけですね。世の中も少しずつ変化している。ここに長い線香を燃やしてありますが、この線香も、気がつかないうちにしばらくするといつの間にやら煙になって、灰になって消えてなくなってしまう。大切にしていたものも、いつの間にか古くなって、使えなくなってしまう。それが世の常でございます。

10月3日〜5日に、奈良の西大寺で昔から続く、光明真言会という法要が行われます。ここで飾られるお花は、ススキ、鶏頭、そして彼岸花です。必ず、これらの花を飾ることになっているんです。なぜ、これらのお花が飾られるようになったかは私ははっきりとはわからないのですが、彼岸花が飾られるということはきっと、この花が咲く時期に昔からずっとこの法要が行われていたということなのだろうと思います。お彼岸が巡ってくると、亡くなった人のことを思い出したり偲んだりして、供養をしようという法要が昔から続いています。お花を飾るということで思い出しましたが、もう30数年前になりますが、亡くなりました私の父と一緒に、インドへお参りに行きました。いろいろな仏蹟を巡ったり、それからスリランカへもお参りに行きました。インドやスリランカのお寺にお参りして、そこで行われている法要をみますと、一番大きく違っているのは花の生け方なんですね。日本では仏様を飾り立てるようにしてお花を仏様の周りにお供えします。インドへ行きますと、お花の首のところでちぎって、花の房をそのままお皿に載せて、それをそのまま仏様にお供えするんです。葉っぱのついていない、先のところだけをとってお供えするんです。これを見た私の父がいうには、「なるほど、仏教が生まれたインドやスリランカでは、花を供えるというのは、お釈迦さんに供えると同時に、その花がすぐにしぼんでいくものであるということを感じるのだ」と。「花の色は移りにけりな徒に…」という百人一首の歌がありますように、花は、いつまでも花の美しさを保っているわけではなくて、お供えした花もやがて朽ちていく、しおれていくんですね。そしてまた新しい花を別の人がお供えする。お供えした花はすぐに朽ちていくけれども、次々とお供えされた新しい花が仏様を飾っていくのです。お参りした人達は、実は、きれいな花をお釈迦様に供えるということと共に、その花が移ろい行くということを仏様の前で感じるのです。こんなきれいな花もその花の美しさをいつまでも保っていることはできない、ということを、お花を供えることによって知るのですね。つまり、そういうことを「覚る」のですね。毎日毎日、いろいろなことが変わっていく、でも、秋になったら彼岸花が咲くころにお参りをし、春になったらまた、お彼岸のお参りをする。こういうことはそう変わるものではありません。形のあるものは確かに変わっていく、壊れていく。しかし、壊れないものもある。「変わっていく、壊れていく」というものの考え方自体、これは変わらないものです。我々が人間として生まれ、親がその親から生まれ、そうやって我々がつながっている、「つながっている」といっても、その人がずっと長生きしているわけではありません。だれも200年も長生きした人はいないのです。しかし、つながっている、切れているはずなのに、つながっている。と、このように私たちが考えることは、昔からちっとも変わっていないのですね。お釈迦様の時代から、今の科学の発達した現代に至るまで、変わらないもの、考え方というものがある。その何か変わらないものがあるとすれば、そのことを仏教では、「法」といいます。そういう変わらないものを見つけることができれば、なにも右往左往することはないではないか。人間はいろいろな生き方をする、怪我をして死ぬ人もあれば、病気で死ぬ人もある、毎年毎年歳をとり、そして必ず最後には死んでしまうのだけれど、そこに変わらない何か貫くものがある、そういうものがあると信じているのであれば、そんなことで心を右往左往することはないではないか、というのが仏教の教えの一つであります。とはいうものの、そういうことを会得して「覚り」を得る、というのは、頭では何となくわかったようなつもりになっても、そう簡単には心の中に落ち着くものではありません。少しでもその境地に近づけるように、と思って、ご先祖様のことを考えてみれば、私とご先祖様、遠く立場が違うようで、実はつながっているんだ、常々変わり移ろい行くのだけれども、命がつながっているその中にいるとすれば、「今」というその瞬間はとても大事なものであります。これからも変わっていく、前からも変わってきているかも知れないけれど、今の「私」というのはここに変わらずあるということですから、そう思うと「今」を大切に、身体を大切にして、みんなと仲良くするということが、ご先祖様に対する供養でもあると思います。ご先祖様に対する供養というのは、今生きている私たちが何かいいことをする。「何かいいこと」というのはまず、自分が元気であることです。それから、これから生まれてくる若い命、これから起こるであろうことに対して、自分が何かの形で関わる、我々生きているもの同士が仲良くするということが、ご先祖様に対する供養になると考えています。どうぞ、ご先祖様のことを思いながら、今生きている私たちのありがたさ、命のありがたさを噛みしめたいと思います。